群馬で初めて成功し、今も続く北軽井沢アウトサイダー

乳業という商売をし、年間売り上げ数十億の会社を経営する人たちと、自らの「組織」を作る事さえ出来なかった酪農家の戦いがあった。
最初から結果は見えていた。
しかし、この戦いの中に凝縮されたコンテンツは(株)ラクテックス(※)に引き継がれ、(株)MMJ創設のきっかけにもなっている。

※ 2001年の設立以来アウトサイダーとしての生乳出荷を続けている群馬県の5軒長野県1軒
  の酪農家組織。

アウトサイダーになるきっかけ

個人名は仮名となっています。

約10年前、平成6年8月7日、長野県の八ヶ岳酪農組合(※1)の運営する農プラ乳業から群馬県の北軽井沢で酪農を営む川野(※2) にアウトサイダーとして生乳を出荷しないか、という話が来る。
当時、北軽井沢では生産調整こそ無かったが、既存組合団体の買取乳価は下がっていた。
北軽井沢の生乳は成分が高く、以前から付近の中小乳業メーカーは欲しがっていた。
当時の背景として、大手メーカーが台頭→中小メーカーの締め出し→中小メーカーの生き残り争い→生乳の奪い合いが起こっていたと考えられる。

※1 酪農家役員からなる農プラ乳業(国の補助事業で創設される場合が多い)
※2 当時、北軽井沢地区で大手酪農家のひとり。今回のアウトサイダーの発起人であり、
   終始中心となった人物。
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集まった6人

アウトサイダーになる際、川野は、北軽井沢の酪農家約60軒の中から、自分を含め11軒を選出し、平成6年8月12日に最初の会議を持った。
会議の結果、そのうち5名が(木下、徳沢、松山ら)川野をリーダーとしてアウト乳販売に踏み切る事になった。
川野を合わせ6軒の中には25頭の農家から 100頭の農家までおり、その経営規模には格差があったが、乳質の安定に加え、 地域内で意欲的な農家であることや、人間関係等を考慮した上での人選と思われる。
平成6年8月14日、アウト乳初出荷を実行する。

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農協からの圧力

北軽井沢の農家数軒が指定団体であるJAあがつま(※)を抜け、アウトサイダーになる以前、 受け入れ乳業である八ケ岳酪農組合に対し「指定団体農協の生乳を買え!」と圧力がかかった。
中小乳業に対する生乳一元化の強要である。
しかし乳業側は、「この6軒の酪農家の生乳でなければ駄目だ」という姿勢を貫いたため、農協も手を引いたという。
現在では多く見られるようになったが、当時としては珍しい産地指定牛乳であった。
組合側はあくまで生乳はひとつ、合乳を受けろ、と迫っていた。
6軒の生産者と受け入れ乳業の強い姿勢に、農協は6軒の脱退を承諾した。
その際、酪農家に対して、せめて乳代を農協に振り込むように、と申し出るにとどまった。(単に金融手続き上のこととして)
この数年前、群馬県内で失敗した2件の指定団体脱退事件(実際には出荷できなかったのでアウトサイダーとは言えない)から見ると、 川野をはじめとする関係者の強く毅然とした対応が、脱退成功をもたらしたといえよう。

※ 国が牛乳の計画生産のため、都道府県単位で指定している生産者団体(当時)。
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批判の声

当時、近隣のインサイダー農家はどのような気持ちだったのだろうか。
一部には頑張ってくれという励ましの言葉を掛ける農家や、協力的な保健所の職員、農協関係者もいたが、聞こえてくるのは批判の声が多かった。
おさえ切れない妬み、裏切られたという焦燥感、それは解らないでもないが「アウトサイダーの仲間に入りたければ指定団体を抜けてくれば仲間に入れてやるよ」 という誘いの言葉に応える人はいなかったという。

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乳業との契約

出荷先乳業と生乳を取引するに当たり、要望された乳量は10t/日、提示された乳価は、冬90円、夏は100円という好条件であった。
北軽井沢のアウトサイダー出荷は順調に歩みだしたかに思われた。
しかし、その期待は徐々に裏切られることになる。
取引開始後3ヶ月は100円/kgの乳価が支払われた。
しかし4ヶ月目からは、思ったように産地指定牛乳が売れないことが原因となり、生乳を買い取る乳業側は、 検査料など色々な名目をつけては乳価を引き下げ、実際に支払われる乳価は通年85円〜86円/kgと、当初の契約とは早4ヶ月目にして、大幅に引き下げられた。
また、乳質に関して、アウトサイダーに厳しく、出荷先乳業の八ヶ岳酪農組合、組合員に甘くなっていること、 同組合員にだけ配乳還元金を支払っていること(7円/kg還元された農家もいた)なども、アウトサイダー乳価が安く取引される原因となっていた。
徐々に販売乳価が下げられる中、さらに同乳業は、集乳運賃について北軽井沢7軒の農家には5円かかっていると説明しながら、 実際には3.5円であったことが、委託先の運送業者の話から発覚した。

7軒の酪農家の間に「まともな付き合いは出来ない、馬鹿にされている」という意識が生まれ、疑心暗鬼に陥る。
アウトサイダーになった7軒の農家は月に一度会議を開き、その席に同乳業の組合長、参事も出席していたが、契約そのものが乳業の主導で結ばれた。
年毎に下げられる乳価に不安を感じ、契約書に再三、金額を明記するよう申し入れたが、担当専務の「自分を信用してくれ」という言葉で押し切られた。
その後、契約時の役員が3年後には辞職したこともあり、当初の契約条件での取引が実現しないまま5年が過ぎた。

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団体の仕掛けた罠

北軽井沢のアウトサイダー酪農が実現するまで、群馬県内のアウトサイダーへの試みは、2件あった。
それらは生乳を初出荷する直前に所属団体の知るところとなり、出荷先への販売妨害をされ、失敗に終わっていた。
群馬では初めての5年間続いてきたアウトサイダーとしての生乳出荷だ。
平成8年にはさらに山田が加わり、合計7軒になる。
が、期待していたような乳価は得られず、農家としては薄々限界を感じ始めていた。
そのとき、決定的な事件が起こった。
きっかけは、アウトサイダーになった農家にも後継者が入り、牛舎を増改築するため農協に国の制度資金の借り入れを申し込んだ時だ。
農協に資金借り入れを申し込むと、融資の条件として、「生乳の指定団体農協への全量出荷が条件だ」といわれ、 指定団体に再加入しなければ貸し出せないといわれた。(一般の銀行などの金融機関経由で制度資金を申し込む手段はあるが、農地法の制約上、担保不足になる)

川野を始め、アウトサイダーとしてメンバーに入っていた当時の7軒は、酪農組合への再加入はしたくないということを意思表示した。
その理由として、以前所属していた吾妻酪農組合は手数料が高い事、多くの点で経済的に拘束される事、また乳代精算の不透明性などの点であった。
そうしたところ農協参事、山川氏は群馬の経済連に直接加入して、生乳を出荷すれば、新たな一組合として7軒を認めるということを提案した。
7軒の農家は相談の結果、乳業との契約を打ち切って、群馬経済連に加入し、指定団体に戻る事を決意する。
この時点では、まだこの誘いが巧妙な吾妻酪農組合、乳販連などの罠である事に気付いていなかった。
八ヶ岳酪農組合とは契約終了手続きをし、最終的な指定団体再加入の会議の席上、農協惨事山川氏は「経済連の話などしていない」と、 今までの直接加入の話を反故にするような発言に終始した。
団体側は吾妻酪農協への再加入を執拗にせまる。
条件は生産乳量に対しての1円/kgでの生産枠買取であった。
指定団体の取引には出荷枠というのがあり、農家毎個別に管理される。
これは一度脱退したものに対して新参者扱いした、実質上の罰金の徴収である。

7軒の農家は激怒した。
初めて騙されて罠にはまった事に気付く。
団体側は何とかその場を取り繕おうとしたが、会議は決裂した。
もう八ヶ岳酪農組合に戻る事はできない、組織らしい組織を築かなかった7軒の仲間は、分裂の道を歩み始めることになる。

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7軒の分裂

団体の術中にはまった7軒の農家は、乳業との契約が切れるまでの1ヶ月間で、次の販売先を獲得しなければならないという苦境に立たされた。
そのような苦しい状況で、7軒の中でも対外交渉力のある農家は各自で販売先を模索し始める。
松山はタカハシ乳業とオーガニック乳で契約、徳沢は東信ミルクプラントと契約、そして、リーダーとして農家をまとめていた川野自身も、 単独で近隣にある豊田乳業と契約を結ぶ(7軒のアウトサイダー出荷を実行した後、H8年から 150〜200kg/日ほど出荷していた)。
それぞれの乳業は小規模であり、処理量も安定しておらず、求める品質も異なっていた。
7軒の農家は会合を重ねるが、有効な妙案は浮かばない。
独自の販売交渉をしていない他の4軒の農家は、常に7人一緒に行動してきたのだからと、既存組合が行っているようなプール乳価にすることを求める。
しかし、ここにきて量的な大きさが足かせとなり(7軒合わせて10t/日)、どこの乳業も「安ければ引き取ってもいいけど」というような返答であった。
余乳扱いである。
プール乳価にしたところで、継続は困難と感じた川野氏は、プール乳価での継続を否定した。
夫婦同伴で招集した会議は夜を徹して話し合われたが意見の一致がないまま、解散となる。
これをきっかけに、7軒の農家は仲間意識を失い、5年間続いた同乳業との契約期限が切れた平成11年4月、それぞれ個別の道を選択することとなった。

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それぞれの選択

7軒のうち、現在もアウトサイダーとして出荷を続けているのは川野、徳沢の2軒と、オーガニックをしている松山である。
川野は、豊田乳業に出荷を続けていたが、量的に少なかったため(150〜300kg/日)、 ほか大半(2t強/日)は八ヶ岳酪農組合に65円/kgで余乳として引き取ってもらうという状態が1年半続いた。
しかしその後、豊田乳業と全量出荷契約を結び、八ヶ岳酪農組合とは取引をやめた。
徳沢氏は、団体との会議の破談後すぐに復帰を申し出た事や、同乳業に全量出荷するという条件を満たした事から、元の価格(85〜86円/kg)で八ヶ岳酪農組合に再加入した。
その後2年ほどで八ヶ岳酪農組合とは契約を打ち切って、長野県の東信ミルクプラントと契約を結び、アウトサイダーとして出荷を継続している。
松山は、以前から輸入乾草を使わない自給飼料主体での酪農を営んでいたため、タカハシ乳業と契約を結び、120円/kgでオーガニック牛乳を始めた。
その他の4軒は、それぞれ1円/kgで出荷枠を買い、インサイダーに戻った。

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インサイダーとアウトサイダー

インサイダーに戻った4軒の内の、ひとりの酪農家の話では、乳価が当初の話とは違っていたこと、7人の仲間意識が崩れたことが、破綻の原因であったと言う。
北軽井沢は開拓地であり、そこで酪農を営む約60軒の農家は、いわば同じ釜の飯を食った同志であり、それと同時に、横並び意識も強い。
規模の拡大や、機械の購入など、周囲の妬みの視線を浴びることも少なくない。
そんな中で、アウトサイダーとして生乳を出荷することは、地域からの孤立を招く。
周囲のインサイダー農家は、7軒の農家がアウトサイダーとして出荷を開始して初めて、その事実を知った。
アウトに出る事について相談を受けなかった事、誘われなかった事に少なからず「疎外された」という意識はあったという。
そして5年後、インサイダーに戻った4軒の農家は、やがて周囲に溶け込んだというが、アウトサイダーとして生乳出荷を開始した平成6年から11年という歳月を経た。
アウトサイダーを続けている農家は、出荷先が違うというだけで酪農コミュニティーから外れている面がうかがえた。
酪農専業地帯(地域の農家がほとんど酪農家)に多い現象だ。
比較的、他業種、多様な農業地帯のアウトサイダーには見られない状況があるように思える。
これも指定団体による、牛乳再販制度の隠れた一面である。
他の業種や、農業団体にはない酪農独特の仲間意識と暗い側面がそこにある。
それでも時を経ればこうした問題は自然に消滅するもので、今では共進会なども一緒に行い、交流は盛んになってきた。
世代が変わろうとしている今、出荷先にとらわれていた仲間意識も変わり、新しいコミュニティーが出来ようとしている。

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数多い教訓

アウトサイダーを始めた当時、川野の立場は微妙だった。
リーダー的役割でありながら、その報酬は他の6軒から得ていない。無報酬である。
無報酬であれば当然責任は他の6軒と同じわけであるが、「言いだしっぺ」という事からリーダーとなった。
その性格が親分肌だったという面もリーダー役をかうのを手伝ったのだろう。

当時、アウトサイダーになることを選択した7軒はインサイダーでの苦しい経営の中、乳価が高いという理由からアウトサイダーになった。
ところが販売先はそれほど甘い相手ではなく、商売上の不手際から思ったような乳価には程遠い値段で仕切られた。
そこへ団体の仕掛けた罠が待っていた。
「農業協同組合」という農家が作った農家のための組織が一人歩きした。
そして卑劣極まりない手段で農家を元の奴隷のような場所に戻そうとしたのである。
川野は戻らなかった、「アウトに出ずにあのままいたら子供の学費さえ払えなかった」という。
農協と完全に縁切りする必要もないが、中に入るつもりはないと、遠くを見ながら静かに語った。
多くの事があったのだろう。

川野はアウトサイダーを6軒(後に7軒)の仲間と実現した後、思った以上に難しい交渉や、変化する情勢の中で組織の必要性を感じた。
1円/kgの互助会的な資金を募って万一のために備えようとも提案した。
しかし、各農家は生活が苦しく、全体としての備蓄を拠出するのは難しい状況だったという。
当時、乳価が高いからという理由でアウトサイダーになった7軒の農家は徐々に選択肢を狭め、行き先を見失う。
考えてみると、こうした意識のメンバーでは何を仲間全体としての目的にしたらいいか難しい。
生乳を高く売るというのはあくまで手段だ。目的ではない。
出荷先をひとつの乳業に特定した事も手段としては適切ではなかった。
高すぎる乳価は相手の乳業に負担を掛ける。続かないのだ。
乳価という面では、乳業との共存ができる値段、という事になる。これは目的にはなり得ない。

(株)ラクテックス創設時にも盛んに話し合われたが、組織の目的は「自己の力で販売力まで持った酪農経営を構築し、安定した経営を目指す事」ではないだろうか。
これを達成する手段は限りなく存在する。
ひとつの乳業との商談が失敗したからといって組織を終息させる必要はどこにもない。
この北軽井沢のアウトサイダー酪農には、リーダーはいても、団結し、ひとつの目的を持つ組織がなかった。
権限と責任を明確にしたものがなかった。
リーダーとメンバーの意識は徐々に溝ができ、互いに不安と不信を募らせている。
団体の罠にはまって乳業との契約を打ち切った時でも、数多くの選択肢はあったと思われる。
しかし、全体としては終結、そして分裂の道を選んだ。

川野にしてみれば、自ら始めたアウトサイダーを分裂させるのは辛い選択であったと思う。
そのとき、自らの力量にも不安があったろうが、それ以上にメンバーの無責任な言動や態度に将来を危惧したのではないかと思う。
あの時プール乳価に…という声に応えていても、たぶん継続は難しかったろう。
崩壊離散のきっかけは乳業、組合との交渉だったが、そこに至った本質的な原因は、当人も含めた7軒の酪農家にあったのだから。
北軽井沢のアウトサイダー酪農は多くの教訓を残した。
酪農家が陥りやすい組織つくりや交渉術の失敗。
そして違法な契約違反まで犯して農家を食い物にしようとする農業団体の姿勢。
それでも残った3軒の農家は今もアウトサイダーを続けて北軽井沢を代表するリーダー的酪農家として頑張っている。
インサイダーに戻って酪農を続けている4件の農家も、大きく飛躍して現在の北軽井沢酪農、群馬の酪農を牽引するような力をつけた。

アウトサイダーになった事で、インサイダーにいたのではできない多くの経験を得た。
当時の、7軒の農家が北軽井沢の酪農を大きく変えようとしている。
取材中その中のひとりがこう語ってくれた。
「あの出来事、俺たちがやってきた事を風化させたくない」と。

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取材を終えて

一連の出来事は当事者の酪農家はもちろんだが、近隣の農家にも大きな傷跡を心に残したようだ。
農協組織への不信感と諦め。
元来農家が作った組織ではあるが、すでに農家の手に負えないほど巨大化してしまっている。
何よりも、農家自身がマインドコントロールされてしまっている。
「逆らえばろくな事がない」という言葉がよく話の中に出てくる。
改革や改善などという事は組合長の挨拶の中だけの話で、現実にはなにも変化しないだろう。

今回の取材では特にリーダーシップ、メンバーシップという面でも考えさせられた。
川野は、みんなのリーダーシップを取れるだけの時間的、経済的余裕がなかったという。
夫婦だけで100頭の搾乳をしていれば時間の余裕などできるはずもない。
だから各個人の責任でアウトサイダーを始めてもらい、八ヶ岳酪農乳業との契約書には個々の判断で捺印した。
しかしメンバーとなった酪農家にその意識はなかった。
組合に依属する代わりに「八ヶ岳乳業傘下に入った、川野に付いて行った」という意識だった。
月毎の会議を開いても、各農家の意見はほとんど聞く事ができなかったという。
自己の責任で、と言われても、理解し、受け入れるのは難しかったようだ。
リーダーの責任を問う非難は良く聞くが、メンバーにも責任はある。
選んだからにはその人が十分動けるよう、協力しなければならない。
決定されるまでに、意見を言うのもメンバーの責任だ。
これがなくてはリーダーとして、勇気を持った適切な決断ができない。
そして、メンバーであればリーダーの決定に従う義務がある。

古代ローマは、当初3000人の小村であった。
周りは何十万人という規模の王国に囲まれていた。
ギリシャ、エジプト、カルタゴ、スペイン、ガリア、それらの国と戦い、 融和し後にヨーロッパ全域をまとめる大帝国となった。
そして千年の長きに渡ってこれらの人々を治めている。
紀元前500年ころ、ローマ創設期、周りの王国は負け戦の将軍を帰国と同時に処刑していた。
そうする事で必死に戦い、勇敢な戦になると言う。
確かにそうだが、 勝敗の確立は平均すれば2分の1である。
何度も繰り返される戦争で、将軍は何人、生き残れるのだろうか。
それに戦いは将軍の力量だけで左右するものでもない。
ローマは優秀な将軍を育てるために当時では例がないことをする。
敗戦の将をまったく罰せず、またすぐに新たな軍隊を与えて戦場に出している。

そこには、敗戦で部下を失い、名誉は傷ついている、これ以上なぜ罰する必要があろうか。という軍を送り出したローマ市民の総意があったという。
敗軍の将も戦の経験を積むうちに、勇気だけではなく知恵をつけるようになる。
貴重な経験を生かし、自軍の2倍の敵を打ち負かすほどの将軍になる。
そしてまた軍隊を増やし時に5倍もの敵軍をも撃破する。
勇気と技術とリーダーシップ、メンバーシップのコンビネーションだ。
建国後、300年の時をかけ無敵のローマ軍ができたのである。

今回の取材では酪農家が陥りやすい間違いが数多く伺える。
重い口を開いていただくのに時間もかかった。
それでも取材に協力していただいた方々が一様に言うのはやってよかった、いい経験だった。今もあの経験は生きているよ、という言葉だ。
近隣酪農のうわさ話として、内外ともに川野氏や当事者に対する批判と中傷は聞く。
しかしそのほとんどが事実とは違うものだ。
噂話には尾ひれがつくと言うが、尾ひれ背びれも大きくなると肝心の魚まで変わってしまうらしい。
リーダーである川野はその最前線で戦っただけに、他のメンバーとは比較にならないほど精神的、経済的負担を受けた。
しかしそれも今になってみればいい経験であったという。
65円/kgの乳価でまともな牛乳を売ると思えば怖いものはないのだろう。

この貴重な経験をどこまで生かせるか。酪農界を引き継ぐ世代の器量と姿勢にかかっている。

個人名、および一部の団体名は仮名を使わせていただいたが、文中大変失礼な段、まことに失礼な表現等あります。
簡潔にわかりやすく表現するあまり、 当事者にとっては耐え難い部分もあると思われます。
ご容赦のほどお願いいたします。

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概略年表

平成4年9月1日  JA中之条・吾妻町・群馬東村・名久田・群馬高山村・
      長野原・六合・北軽井沢の8農協とJA吾妻酪連との
      合併により、JAあがつまが新設される
平成5年冬    生乳の生産調整が行われる
平成6年8月7日  八ケ岳酪農組合から川野氏に、アウトサイダーとして
      生乳出荷しないか、という話が来る
8月12日  川野氏が選出した11人の酪農家で最初の会議を開く
      その結果、川野氏含む6人がアウトサイダーに
      なることを決意
8月13日  農協が八ケ岳酪農組合に対し圧力をかけてくるが反発
      6人は八ケ岳酪農組合と個別に話し合い、個別に契約
     (契約時の条件…乳量:10t/日、乳価:冬90円、夏100円/kg)
8月14日  アウトサイダーとして八ケ岳酪農組合に初出荷
契約から3ヶ月後 八ケ岳酪農組合、アウトサイダーの乳価を
             引き下げ始める
平成8年山田氏が加わり、アウトサイダーは7人に
川野氏、豊田乳業にも出荷開始(150〜200kg/日)
平成9年契約時の八ケ岳酪農組合の役員が辞職
平成11年農協に国の制度資金借り入れを申し込むがアウトサイダーである
ことを理由に断られる
     ↓
農協参事に経済連への直接加入を勧められ、乳業との契約を打ち切る
     ↓
インサイダーに戻るための契約会議の席上、経済連加入の話を反故に
され、酪農家各自で販売先を模索し始める
     ↓
7軒の話し合いでプール乳価を求められるが川野氏が拒否し決裂
     ↓
川野氏:豊田乳業に150〜200kg/日、
他大半は八ケ岳酪農組合に65円/kgで出荷(余乳扱い)
     ↓
その他の4軒:1円/kgで出荷枠を買いインサイダーに戻る
平成12年川野氏:豊田乳業と全量出荷契約を結び現在に至る
平成13年徳沢氏:東信ミルクプラントと契約し現在に至る
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